ファミマル公平のひとり言

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2008年01月01日

「 「勝谷誠彦の××な日々」2008年1月1日号・・・ 」

かつや.bmp

<私たちは坂の下に立っている。だからこそ坂の上の雲を掴みに行ける喜びを知ろうではないか>。

 現在、午前3時。
 未だ太陽は大和島根の上に参らざるも、心から皇紀2668年の新春を言祝ぎ奉る。
 ただ生きようとよく生きようと、この惑星は回り続ける。万人の上に、同じく朝はやって来る。そして、その中で私たちが勝手に決めた暦が、年を改めるのである。
 しかしその輪廻の中で生きている以上、なにごとかを自らの中で確かめるきっかけとしても悪くはない。
 年をとると、ただの新年の喜びを言うにも、ひねくれてくるものだ(笑)。

 素直に言おう。
 こうしてあなたや、あなたに、毎日のメールをお送りすることを公式に始めて、ちょうど1年が経過した。
 365日をやり遂げたことに、何よりも私は安堵している。
 本来ならばこの述懐は昨日あってもよかったのかもしれない。しかし、昨日はやはり365回目であったのだ。それが無事届き、その感想を頂戴して、ようやく私は1年が終えた感慨を得たのである。
 そしてまた、今年も同様に毎日の私からの頼りが無事にあなたに届くことを心から祈る。ひとりでも多くの方が、このささやかな便りを読んで欲しいと願う。やがてはそのことが、少しはこの国を動かすことにつながると信じつつ。
 あなたやあなたが、このささやかな便りの存在について、知る辺にお声をかけてくれることを願いたい。

 この惑星(ほし)は勝手に回り続けているとさきほど書いた。それに対して、これまた勝手に私たちが暦をつけているのであって、年が改まったからといって、実際は何がかわるわけでもない。
 ましてや自らの日常を省みる時、殺伐たる日々が昨日と今日で変わるわけでもない。
 しかしひとはやはり、そこに何かの意味を求めたがる。変化のためにはきっかけが欲しいからだ。
 今日から日記を始める人もいるだろうし、今日から煙草をやめる人もいるだろう。
 しかし、多くの場合、ひとが勝手に決めた暦の変化をきっかけとしてはじめたそうした決意は長続きしない。
 なぜか。必然がないからだ。必然がない最大の理由は、現状を改革することに対する、合理的な理解がないからだ。

 この国をどう変えていくのか。いや、国家と言う言葉が嫌ならば、私たちの環境を、と言い換えてもいい。
 利権談合共産主義の偽装国家がまともだとは、誰もが思っていないだろう。そして、年が改まる今日のような日には、なんとかそれを変革したいとも思うだろう。
 しかし、思い続けて何年になるのだろうか。その果実は少しでも私たちの手に入っているだろうか。
 否と言っていい。
 であれば、私たちは「なぜ変われないのか」を真剣に検討する時期に来ているのではないだろううか。

 さきほど「必然があるか」ということに触れた。私たちは変化を求める「必然」について真剣に考えてきただろうか。
 私はこの問いを残酷ながら、ちょうど退職をはじめている団塊の世代に対して突きつけたい。
 あなたがたは変化の「必然」をどこまで真剣に考えていたのか。そして、どういう「変化」をしたかったのか。
 あなたがたの活動の行き着く先はどんな国家像だったのか。
 もしそれが共産主義であり社会主義であったとすれば、そのことはもはや歴史に否定された。
 であれば、いまあなた方には深刻な反省があっていいはずだ。しかし寡聞にして、そういう声を私は聞かない。
 あなた方を煽った作家と賞する売国奴どもは、今ものうのうと朝日新聞あたりに駄文を発表し続けている。

 変化の「必然」を知るためには、私たちがいまどこにいるかを冷静に見なくてはいけない。
 ところがこの国は「なんとなくダメだ」と声高に言うことには長けていても、どこがダメだかには目を向けないできた。
 「なんとなくダメだ」といわれることを喜ぶ自虐的な性癖を持つ一方で「なんとなく凄い」と褒められることを喜ぶのが、残念ながら国民的な性癖だった。衆愚をカネにする大マスコミの方々はその上にのっかってきたのである。
 いま私たちはどの程度「ダメ」なのだろうか。
 芸能人の離婚と同様、あまり嬉しくない情報を、この国の役人は大マスコミの方々が休暇をとっているこの時期に垂れ流す。
 <日本GDPは4兆3775億ドル…1人あたり18位に下落>
 http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20071226it11.htm?from=top
 
 「列強」という言葉がある。
 18世紀以来の帝国主義の中で生れた言葉で、もともとはナポレオンに引っかきまわされた欧州での神聖同盟の国々が基本であった。それに、新大陸からアメリカそして日露戦争に勝った日本が加わり、おおよそのところ、英米仏独伊露にオーストリア・ハンガリー帝国あたりが称される。
 大東亜戦争後の事情で、これに核を持つことで支那やインドあたりが加わったといってもいいだろう。
 しかしそれでも現代における「列強」は10指に足りないはずだ。今日の国力は軍事力よりもむしろ経済力だ。その指標たるGDPで、日本国はその10カ国からはるかに落ちる18位にしかランクされていないのだ。
 深刻なのは「ひとり頭GDP」においてということだ。人口が多ければ、GDPそのものは上に行く。ここで言われているのは「日本人ひとりひとりがどの程度のものか」であって、言って見れば「私たちの国民の程度は世界中で18位程度でしかない」ということなのだ。

 本来ならばメディアはこの事実を1面トップにもってきて、四半世紀前ならば世界でトップクラスであったものがどうしてここまでダメになったのかということを、連日のキャンペーンで検証すべきであろう。
 しかしそれはなされない。
 「なんとなくダメだ」と言われるのは喜ぶくせに「具体的にここはダメだ」と言われるとカチンとくるのが、この国の国民の性癖だからだ。カチンとこられては部数は伸びず視聴率は落ちる。衆愚相手に商売をする大マスコミがとりあげない所以である。

 私たちはもはや「列強」ではない。「先進国」ですらないかもしれない。
 この事実を冷静に認めることから、すべては始まるのではないのか。
 しかし、そのことは、それほど不幸なことだろうか。
 明治の維新回天から、驚くほどの早さで私たちは「列強」になった。いや、「列強」に「なろうとした」。その無理のツケを後日身に沁みることになり、国を滅ぼしかける。だが、そのあと再び経済的な「列強」になろうと努力し、ほぼそれに成功し、そして再び転落した。
 しかし、考えてみよう。私たちがもっとも楽しかったのは、その「列強になろうとする日々」だったのではないか。
 最近しきりに昭和30年代を懐かしむ映画などが出来ている。今年からはNHKが大型ドラマとして『坂の上の雲』を作るということで、またあのころのブームが来そうだ。
 『坂の上の雲』こそ、私たちが見続けてきたものだった。そしてその雲を見ている時期こそが、この民族がもっとも奮い立っていた日々だったのではないのか。
 
 であれば、再び奮い立てばいい。
 直視せよ。
 私たちは、坂の下にいるのである。
 いままた、坂の上には雲があるのである。なぜこうべを挙げてそれを見つめているということを認めないのか。
 認めさせないとすれば、そんな政府もメディアも卑劣というほかはない。
 認めることがそんなに恥ずかしいのだろうか。
 子どもたちに、私たちは坂の下にいるのだから、いつの日か君たちは坂を駆け上がれということが、大人の勇気ではないのか。
 
 私は今年は私たちが坂の下に再び立っていることを、識る年でありたいと思っている。そのことは、勇気がいることだ。そして、残酷なことでもある。
 そのためには、あらゆる恥をかくことも必要だし、この国の腐れ政府が何をしてきたかという収支決算をすべて調べなくてはいけない。
 しかし、そこから先は楽しいではないか。私たちの父祖が、どんなに楽しく「坂の上」を目指してきたか。
 その体験を、私たちもまたできるわけではないか。
 陽はまた登るとは私は言いたくはない。そんな他力本願なものに頼りたくはない。
 坂の上の雲は見えている。
 しかしそれをつかみに行くかどうかは、私たちの義と志に尽きている。
 その二つながらを両手に携えて、坂を駆け上る、そんな気概を持つ年に、今年をしたいと思うのである。 


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◎「勝谷誠彦の××な日々」は月額875円で毎朝読むことができます。
 詳しくは、勝谷誠彦のホームページをご覧ください。


  

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